第96回アカデミー賞国際長編映画・音響賞受賞のこの映画をやっと自分の眼と耳で確認することができた。
ルーツがユダヤ人であるジョナサン・グレイザー監督は映画の中で、一切アウシュヴッツ収容所の中を見せない。しかし、冒頭数分、画面が真っ暗な中で薄気味悪い音だけが続く。その時点からこちらの心はざわざわと逆立つ。
主人公ルドルフ・ヘスは手記『アウシュヴィッツ収容所―所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』のなかで「私はそれとは知らず第三帝国の巨大な虐殺機械の一つの歯車にされてしまった」と書いているが、はたしてその歯車になるとき、彼にひとかけらの迷いもなかったのか。この映画を観ると、反対に自分の名前が冠された作戦を祝うパーティの喜びを妻に電話報告する自分に陶酔する男として描かれている。
また、技師を家に呼び、「いかに効率的に『焼却炉』をまわすか」を計算する。このように自分の出世しか彼の頭にはない。もちろん、家族への愛はあるが。自分と家族以外の人間に対する感情は一切ないのだ。これが彼の本性である。手記ではアウシュヴッツでのユダヤ人虐殺を無理やりやらされたと書いているが、そうではないように見える。彼は自分の出世のために嬉々として「焼却」を行っていたのだ。そして、豪華な生活のなかで自分の加害性や残虐性については一切見て見ぬふりを貫いている。
彼の妻も夫が塀の向こうで何をやっているのかをしっかり認識していた。こどもたちもそうである。加虐に麻痺したのだろうか。何のちゅうちょもなく、塀の向こうから調達した毛皮や歯磨き粉のなかからダイヤを没収する。こどもは夜な夜な金歯コレクションを鑑賞するのだ。
画面のこちらの私たちからすれば、ゾッとする話だが、彼らには何の迷いもない。これがおどろおどろしい背景ではなく、整然と整えられた庭園やプールまで備わった豪奢な家のすぐ隣で粛々と行われる。救いのない画面が続く。
映画の最後になって、ヘスが自分の作戦を祝うパーティで酔っ払ったのか、階段を降りるときに何度か立ち止まって嘔吐する。意気揚々と妻に自分の手柄を伝えたあとのことだ。誰もいない中で嘔吐する。そして、あたりを見回す。まるで、自分の本性を誰かに覗かれていないかと確認するがごとく。
冒頭「不気味な音」だけの場面は映画の中で何度か出てきた。叫び声、うめき声、轟音、射撃音、それらが何重にも混じった音だ。よく聞いていないとひとつひとつは聞き分けられないかもしれないが、それでも異常さを感じる。しかし、ヘス家族はこの音を「自分の感覚から意図的に」遮断しているので、平気な顔で豪華な庭園やプールのある家で生活できるのだ。いや、視覚や聴覚だけでなく臭いも意識から遮断しているのだろう。
気持ちが沈むこの映画で唯一の救いはレジスタンスの少女が立ち入り禁止地域(囚人が労働する地域)に忍び込んで囚人たちのために、食べ物を土に埋めていく場面である。この場面は最初ポジネガ反転と思っていたが、サーモグラフィー画像を使ったようである。己の残虐性を徹底的に無視して生活するヘス家族と、夜な夜な忍び込んで囚人たちに心を寄せるレジスタンス少女。
さて、画面のネガポジ。こちらにいる私たちはどちらになりえるのか。歴史に問われている。