エッセイ:映画『落下の解剖学』を観て

―アイデア盗まれたら痛いよな―

本作に完全に取り込まれてしまった。自分と主人公またはその他の登場人物の心を探る150分。簡単な謎解きゲームではない。名探偵が出てきて名推理と拍手で終わらない。たぶん、観客は登場人物に自分に置き換えて結論を自分で出すしかないかも。藪の中である。お互いそれぞれの思いと視点が何重にも重なる展開。

面白いと思ったポイントを4つ。

1.冒頭にも書いたが主人公が夫から「アイデアを盗まれたから書けなくなった」と責められるシーン。思わず「それは痛いよな」と夫に同情した自分が。現著作権法では実際に形になったものが対象となっているので今のところアイデアは著作権法の対象になっていないかと。その証明がとても大変だからだろうとは思う。しかし、執筆の仕事や翻訳もそうだが、実際「自分以外」の人に可視化したものとして提示する部分は創作全体のほんの少しかもしれない。着想から着想モチーフいくつかをどう組み立てるかの部分に命がある。「そこを超えれば山の頂は見える」が私の実感である。この映画で夫は妻にそのことを話してしまったのか、ああという。仕事については家族であっても絶対にしゃべるなというのが私の思い。妻を信じたのかアイデアを話して自分がまとめられなかったアイデアを妻に「書いても良い」と言ってしまったがために、夫婦に取り返しのない溝を作ってしまった大きな要因である(要因はこれだけではないが)と……私は監督の意図を感じた。そして、今、AIに関する著作権法について世界でも日本でも議論が進んでいるが、自分が意図しなくてもいつどこで自分の作品のモチーフが「無断学習」されるかわからない状態だと、「アイデアについて著作権法はカバーしない」と言われるのは痛いなあ。

2.サスペンスとはいっても半分以上が法廷でのやりとり。容疑者を次々と追い込んでいく検察官。そして、供述が少しずつ変わってくる主人公。主人公に同情したい部分とその夫に同情したい部分、さらにこどもに共感する部分もあり、自分の心情がいったり来たり。裁判とはつまるところ出された材料をいかに裁判長に訴えられるかどうか。そこに「事実はどれだけ関与できうるのか」という疑問が湧いてきた。

3.主人公カップルのもろい関係性。特に今回の夫婦は同業者。片方は成功し、一方、片方は成功できない自分に焦っているとしたらこうなるのかと想像してしまった。映画中の展開ではどう見ても妻のほうに分が悪い。お互いがうまくいかないとして家庭内の不満を外で発散する。家庭内のことは成功している妻より仕事がうまくいっていない夫に偏りがち。完全に「現状の典型的夫婦」を逆転した形になっている。通常なら夫が言いそうなことを妻が言う。もし夫が成功して家庭を顧みないとすれば同じ感想を持つのかどうか。自分にあるバイアスを判断することになりそうだ。

4.言葉のもろさ不確かさ。このカップルは母語が異なる。うまくいっているときは言葉など要らないのかもしれないけれど、いったん関係にひびが入り思いがずれてくれば言葉と思いやりしかないということがひしひし伝わってくる。そして、法廷内で「英語はダメ」とことあるごとに強制される主人公。最初は拙いながらもフランス語で対応していたが自分に不利かもしれない証拠が出されたとき、もう英語でしか語ることができなかった妻。

仕事柄、通訳者に司法通訳の仕事をしている人を知っている。その方はこういう場所で容疑者とされる人が不利にならないようにその思いをできる限り正しく伝えているのだなあとあらためてその責任の重さに頭が下がる。

また、証拠として出された録音について。通常、私たちは五感を使って周囲の状況や相手の気持ちを推し量るが、耳から入ってくる音だけを頼りにどこまでが事実でどこからが想像なのかをどれだけ正しく把握できるのか。確か、脳は「足りない情報を補う」癖がある。耳からしか得られないとすれば「自分の気持ちで補う」のではないかと。同じ録音や同じ絵を見ても観るものによってその内容は都合よく変えられるかもしれない。

自分の仕事に感情は入らないほうではあるが、注意しないと自分の都合で内容を作り変えてしまう懸念があるのだろう。あらためて謙虚に批判的に読む意思が大事と感じた。