今、私たちは21世紀ルネッサンスの中に生きている

私がメインにしているSNSブルースカイにとても共感する記事が流れてきたので、紹介したい。その記事はこちら。 昨年直木賞を受賞した作家、伊与原新さんがインタビューに答える形の朝日新聞2026年1月3日付、「AI量産の作品に人が勝つのは難しい 直木賞作家が案じる小説の未来」である。ここ数年私が感じてきたことをすべて伊予原さんが語ってくださっていることに感動すら覚えた。前文は長文だが、ぜひ最後まで目を通していただきたいと切に願う。

記事中に大事と思うキーワードをいくつか発見した。そのひとつが「身体性」。私が感じるのは各自の体験である。誰かがおぜん立てしたキットをその通りに組み立てるのではなく、自分で実験して試行を繰り返すこと。この作業のなかで個性と独自性が育つと考える。

この個性や独自性はときには「癖強い」、「不十分」、「嫌い」という藩王を呼ぶかもしれないが、だからこそ人間なのだ。生成AIが作ったものはそこそこ無難かもしれないが(なかには許せないレベルの不気味なものもあるが)、どうなんだろうか。著作権侵害問題は絶対譲れないとして、それ以外の部分に大衆は満足できているのか。私は95%を生成AIに書かせたという小説を買って読んだのだが最後まで読み通せなかった。表現が私には陳腐ですぐにプロット構成が透けて見えたからだ。最後まで読むまでもないという。個人的に小説を読むときには意外性が欲しい。これまで読んだことのないドキドキ。生成AIが書いたものにそれは期待できないままである。

さらに「工業化」。最近の生成AIが作る文章はある程度までのレベルを許容できるなら使えるのではないかという意見は巷にも多い。それゆえか、ネットを中心に仕事でいただく文章ですら、個人的に出会う英文も日本文もレベルが下がったように思う。そのレベル低下に気が付かないのか、それで良しとしているのか。今や、ネットその他で量産された生成AI成果物を学習すれば生成AIの再生産。たとえが悪いが近親結婚すれば遺伝子異常の確率が高くなるのと同じ。そもそもの生成結果の間違いもハルシネーションも再生産。生成AIの本質を勉強していれば予測できるはずである。

元に戻って、人間の発想にはそれぞれの体験と個性が反映されるからこそ面白いのだ。そのさまざまな個性や体験が出会ってお互いに影響し合う。だが、量産された生成AIに慣れ切ったら人間は、まず自分とは違う発想や意見を正しく客観的に評価できるかどうか。そもそも、自分と違う意見や新しい発想に気が付けるか?周囲を見渡すとまったく気が付いていない人が多いように思う。

生成AIという機械に任せて自分の感覚や感性を奪われていないか。自分の味覚は正常か。苦みや酸っぱさを感じる味蕾は生きているか?そうやって、立ち止まって考える時間を作るほうが良いと思う。かつて、我々の先人は人間回帰を求めてルネッサンス時代を作り上げた。今、私たちは人間しか持ちえない思考、悩み、問い直す力、過ちを認める力、やり直す力……などを機械に明け渡していないか。多くの人たちが生成AI問題を取り上げるのは、人間知的活動の工業化均一化の誘発にNOと考えるからだろう。21世は生成AIという機械から自分は人間だというアイデンティティを取り戻す新たな人間回帰の時代である。